寒いですね。

文字や記述の理解は象徴の解釈である。当たり前だけど。
記述はそこにあるものとしては唯一絶対、揺るぎない一義的なただのモノであり、意味は人間に普遍であるとされているが多少有機的な写像の構造によってやや複義的に(しかし一対一に)結びつけられる形而上のモノであり、ここまではモノであるが、内容は個人の経験、地域、出生その他の有機的な判断の体系によって意味を複合させた多義的な生体である。当たり前だけど。
もしくは経験によっては不完全な部分としての内容はひとかたまりの記述と直接連結されも得るし、逆にその関係を増やすものこそが言語における経験であり、それらの体系が個人のもつ「自然な言語」というもののすがたである。当たり前だけど。
つまり、意味の段階ではそれは規格化された、分化されたカタマリであり、それを内容として「理解する」という行為は無意識的かつ不可逆なものであるということをここでは言いたいので。
この「不可逆である」という文言はもちろん逆変換する必要の存在を示唆するものである。
ところで、言語、あるいは内容の分化というのは個人でなく歴史が行うものである。
もちろんそれは人間の手によって行われるが、つまるところ内容から記述という変換は個人が毎回内容を分化させて記述にしているのではなく、記述から内容という変換の複数回にわたる試行錯誤によってある内容に対する正しい記述への対応を発見し、その対応にそって記述を記述するのである。
(言語の分化とは、おそらく遺伝時のエラーによる生物の進化と同様のこのような逆変換のさいの揺れの集積の結果なのであろうと俺は推測する)
ふだん我々がそれを意識しないのは、先に触れた「記述と内容の断片の直結」の可逆である特性によるのであろう。すなわち、ある程度成熟した言語をもつようになった我々はそのような面倒くさい行為を過去の経験によって大量に免除されているのであると言える。
しかしひとたびこの経験によって保護されたエリアを離れれば内容の記述は試行錯誤と成り果ててしまう。結局、適当に書いてみてそれが気に入るか気に入らないかだという話になってしまう(ただし、「適当に」なにか目的に近いっぽいのを膨大な情報のなかから選んでくるという作用は尊敬に値すると俺は思う)。
まあ、つまり文章が書けないなあという愚痴なのでした。