ボランティアってなに?喰えるの?

昔誰かが、街角でいい若人が募金活動をしてるのを見て「そんなに愛の手を差し伸べたいんなら自分でバイトして給料を寄付しろよ」って言ってたのを俺はよく思い出します。
もちろん募金活動ってのは、金を集めるっていう目的だけでなくて、「金をくれ」と多少不愉快な主張を公に行うことで広告効果をも生み出すのであって、ほんとうは悪でも偽善でもないのでしょう。ほんとうは。
でも、「金をくれ」はいいとしても、「善意をよこせ」はよくない。それを街角で叫ぶのはいいけど、テレビを一日占拠してやるのはよくない。と俺はなんとなく思うわけです。
2chではやらない善よりやる偽善というスローガンがしばしば使われますが、「善意をよこせ」といわれて、言われた人が善でも偽善でもどっちでもいいけどとにかくそういうことをやるのはそれは重要でありましょう。
しかし、その当の「善意をよこせ」と主張している団体は、お金および善意を集めてそれをアフリカだか新潟だかにもってってそれはよかったね、なのですが、
じゃあ君たちが金やらなんやらをかき集めて送ったあとにココに残るモノはどーなのよ?っていう話じゃないですか。
それって、ボランティアリズムの破壊だと思う。
 
俺が思うに、ほんとうにやっちゃいけない種類の善ってのは、実はぜんぜんいいことやってないじゃんっていう善です。やった結果ぜんぜんいい状況になってないじゃんっていう善です。
偽善って、それが本心からのものでないって意味だって辞書には書いてありますけど、おまえが本心からやってるか体面のためにやってるかなんて知らねーよ、じゃないですか。まあ誰かの状況が手放しで改善されたんならいいじゃん。どうでも。
そういう意味では、「やらない善よりやる偽善」なんていう言葉自体が偽善ではありえないってことなので。
だから、ボランティアとか寄付とか、そういうのってもっとシニカルで俗っぽいもんでいいじゃん、と俺はなんとなく思うわけです。
べつに精神性なんてアフリカの人らはしったこっちゃないです。
そりゃあ、たぶん感謝してくれるかもしれないってことでそれに見合うようなちゃんとした意志を持ちたいって言いぶんもわかんなくはないし、それを傲慢だなんていうのは根拠のない主観による断定でしかないんでしょう。
でもね。「俺は寄付をやったぜ」って、何年もたって覚えてるべきことじゃないし、極端な話その日寝て起きたらぽかーんとわすれてるべきもんじゃないっすか。
なかなかそうはいかないけど。
もちろん人と交流して自分も相手もシアワセとか、そんなようなボランティアはこの限りではないです。いまはもっと一方通行で贈与-受諾ってカンジの話です。
でも、贈与した方がいつまでもそれ覚えてて、大人げなく「俺は○○した」って心の中で繰り返してるって、それ貸与じゃん。
バタイユは貨幣は贈与による関係の不均衡をあやつるための道具だって言ったらしいですけど、
その貨幣(および労働などの凡そそれに類するもの)の意味を一旦消そうぜって言ってるのが贈与-受諾型ボランティアの理想じゃないですか。
ね。ボランティアリズムの破壊だよ。。。