人生、というか生活におけるマチガイについて。

「何が正しくて何が間違ってるのかわからなくなりました」
という主張は、まあわりとステレオタイプなものなのかなあとも思うわけなんですが。
 
ずーっと前から言ってる事ですが、何が間違ってるって自分のそれが自分にとってとか他人にとってさえも悪い結果を呼ぶようなものごとほど間違ってるものはないと思うわけです。
字面だけで聞いてるとそれってすごーく愚かで人生において何回もないようなことみたいな感じなんですけど、
これがけっこうやっちゃうんですよね。みんなはどうか知らないけど、少なくとも俺は。
 
1)なんでそうなるってことがわかんなかったの?
2)そうなるってわかってたのに、なんでそんなことやったの?
3)なんでしたいわけじゃないうえにする理由もないようなことをしたの?
 
(1)の質問には、言い逃れなんて楽々できちゃうわけです。だってわからないんですもの。
(2)もまだ大丈夫です。心とか本能とか無意識とか状況とか、そういうあらゆる理性にたがうものごとのせいにすればいいので。
でも、(3)の質問には答えられないです。
 
でも、(3)みたいなこと言われることなんてないじゃん、って言う人もあると思います。
する理由のない、したくもないことをすることなんてないんだって、普通にそう思ってる人だとかそういうことをしない自信のある人とかはそうなんじゃないでしょうか。
これがけっこうやっちゃうんですよね。みんなはどうか知らないけど、少なくとも俺は。
 
これがけっこうつらいわけです。
だって、状況は悪いことになってるわ、それが自分のせいだわ、それとひきかえになにか得たのかっていうとなにもない上に、おまけに自分でなんでそんなことをやらかしたのかさえ分からないわ……
とかってそんなようすじゃあシアワセな気分になんてなれるわけないですよね。
 
(2)で使った言いわけですけど、いろいろ推測してみるに、たぶんそこにあったのは単純に、わずかな心の(というか気分の)ゆらぎとかブレみたいなものでしかなかったんじゃないかって思うわけです。
意思とか言葉になる以前のほんとうに気分とかって単語で片付けれられちゃうようなね。
ただ、ひとつそれがふだんの「気分」とちがうことには、それはごく微量に自分の意思(あるいは意志)を含んでいるってことです。
それも自分の本流の意識とはちがうような、あさっての方向に向かっていくような支流から漏ったようなどーでもいいやつ。
 
でも、現実のほうでは敏感にその意思みたいなものを汲み取って(ホントに汲み取って欲しい想いはガン無視するくせにね)、どーにもならんような配牌を俺によこすわけです。
十三不塔*1かとおもったらアタマ用の対子さえなかった、みたいな(マジそれどーにもなんねえw)。
 
それって、俺っていう人間性のせいなのかなあ。
そんな気がしないでもないけど、本当にそうだったら厭だなあ。

*1:<しーさんぷーたー>と読む。麻雀のすごい役のうちのひとつ。「牌が完全にバラバラである」ということが成立の条件だが、その中に対子(同じ牌が1ペアそろったやつ)が1ペアだけ必要。