Sleep in heavenly peace...

クレーンの先では、あの事故防止用の赤い灯りがゆっくりと明滅していた。
資材を運び続けているであろう昼間とのあいだにぴたりと線引きをするかのように沈黙したそれは、港区の工事中のビルの上からそこここに、もちろんわたしの上にも、赤白縞の腕全体から静かな夜をしたたらせている。
そわそわと降誕節に浮かれる地表からすぐ視線をあげた先に、わたしはそのやわらかな明滅を認めたことに、人々の多くがそれを気づいていないことに、そしてなによりわたしが先ほどまで彼らのうちの一員であったことに驚きととまどいのようなものを感じていた。
もちろんわたしのとまどいはそのためのみにあったわけではない。
それでも、気楽なかけあいのところどころにあるよけて通るべきへこみに、物憂げにも冷淡にも見えるその灯りの明滅はおもいがけずぴったりと収まってしまったのであった。
そしてわたしは、こう思って声のしたほうを振り向く。
こんなような根拠もなにもない杞憂だって、あのビルの上に置いておければいいのに。
とるにたらないとまどいは三大欲の充足に従ってどうせ消える。だってそれは杞憂なのだ、と。

きよしこの夜だとかSilent Nightという歌があると思うんですけど、キリスト教の聖歌だけあってそれってやっぱりもともと英語なんですよね。それで、その原詞と訳詞を並べてみてみると、これがいい訳が、ほとんど絶妙と言ってもいい訳がついてるんですよね。
俺はキリスト教の信仰というものにはふだんからシンパシーを感じられずにいるんですけど、それでもこの歌を(正確に言えば、aikoがラジオ番組で弾き語りした英語の「きよしこの夜」をだれかがmp3にしたものを)詞を見ながら聞いていると、敬意を含んだ感銘のようなものをちょっとぐらいは感じる訳なんです。
つまり、やはりそれは信仰を表明し、信仰をたたえるための歌であり詞であるのだなあということなのです。
クリスマスとクリスマス・イヴのあいだにキリストが生まれたということになっているという話を恥ずかしながら俺は今年初めて知ったのですが、このきよしこの夜という歌は要はキリストが生まれた!ということをくどくどと述べている訳ですよねえ。
これはふだんから思っていたことなのですが、英語というのは、少なくとも我々日本人にとっては、あるいはもっと少なくとも俺にとっては、現実世界のそこらじゅうにころがってるような当たり前で露骨な主張をすることによってこそ、むしろその言語としての魅力のようなものを持しはじめる言語なのだなあと俺は思うわけなんです。
無思慮な日本語が「救世主キリストがお生まれになった!」と言うのと無思慮な英語が「Christ the savor is born!」というのとでは、やっぱり圧倒的に後者が説得力を持つわけで、そういう意味ではこういった宗教歌を日本語に訳すこと、ことに日本での信仰の手段としてコンバートすることってすーごく難しいんだろうなあ、と思うのですよ。
ところが、みなさんもいろんなところをぐぐって英語詞と日本語詞を読んでみて欲しいんですけど、あの日本語詞が比較すればするほどスマートでキレイなんですよねえ。
もちろんそれは日本語に最適化されているというだけで、じゃあ英語詞のほうをもっとスマートにしようとかいっていじってしまうとダメだこりゃってことになるハズなんですよね。でもってやっぱりわれわれ現代人には文語に対する畏敬というか憧憬があるってことも否定できないと思うんですけど、それにしてもね。
そんなわけで、もし本当に2005年前の今日キリストが人の子に救いを齎すために生を受けたのだったとしたら、彼の父たる主、彼の許した罪、それと今宵十字に祈る幾億の人々の信仰のために、少しぐらいなら2005年前のキリストの誕生を祝福してもいいのかなあと初めて思ったのでした。
ハッピーホリデイズ☆