成人の日を迎えるにあたって。

mixiにいちど同じことを書いたけれど、
成人の日という制度が戦後に公が勝手に規定したものであったのだとしても、俺の生活とか俺の言葉、ひいては俺自身さえやはり人間が勝手に規定したものなのであり、だからその日を迎えるということには相応の意味があるともういちど言ってよいと思うのです。
 
俺はいい加減そろそろちゃんと生きなければいけないので、そろそろちゃんと生きようと思いました。
昔、まだほんの中学生だったころに、俺はいちど「第三機関説」なるものを唱えたことがあるのですが、
今思えば、俺が自分の理性と怠惰さのあいだのネゴシエーターとして布置した(と思っていた)それこそがほんとうの理性だったんでしょう。
そうしてそう考えると、俺の理性なんてものは生まれてから19年のあいだに手の指で数えきれるぐらいの回数しか働いてなかったのだ、ということになってしまうわけなのです。
もちろん、俺もまあまともに見えはする人間として、もといちょっと希望的な観測とともに言うなら、まともないち市民として自分の勢いを殺すタイプの理性なら使い慣れたやつを一個持ってるわけなんだけど、それじゃあちゃんと生きてることにはなってなかったんだよね。
だから、
自分の心だとか意志ってものは何かしらの形而上的なエネルギーを喰ってうごいているものだっていう考え方はたぶん子供の理論だったんだよね。
恥ずかしい台詞になるけど、だって本来自分の心こそがエネルギーのおおもとなんだから。
やべえ。恥ずかしいわ。
まあ、そんなわけでこれからはちゃんと生きようと思いました。