悲しいっていうことばについて

人間にはいろいろと高度な感情がありまして、それが人間の人間たるゆえんであるとはいえ、なかにはある程度成長しないと理解できないものもあるというのも実情ですよねえ。
それで、いとおしいっていう感情については「これかなぁ」という実感はつねづねもっていたのですが、
つらいとかさみしいだとかいうことはうざったいぐらい分かっても、それってやっぱりかなしいってこととは根本から違うんだって実感があったうえでも、「かなしいって、本当の話がいったいどういうことなんだろう?」っていうのが正直な話ずっとあったわけです。
もちろん「俺には悲しい感情が欠落してるんだ」みたいなアイタタなことではなくて、たとえばあの肩の筋肉のなんともつらい感じを、中学生ぐらいまではそれを世の中では肩こりって呼ぶんだよってことに気づいてない、みたいなノリで(分かりにくいかしら。
まあとにかくそういう疑問というか不安のようなものがあったうえで、こないだ夢を見たんです。
それは、俺がなんかスラムみたいなところでだれか友達二人と一緒にルームシェアみたいなことやってるんだけど、いろいろあってみんなばらばらになることになって、俺号泣。みたいな流れだったんですけど、
まあ明らかにスラムの風景ってマイノリティーリポートの影響だし3人でルームシェアしてさいごは一人ずつ別の道を選ぶっていうのはちょっと前再放送してたこれそのままなわけで、純粋に俺の意識の支配下にあるのは「俺号泣。」の部分だと思われるのですが、
あややこしい夢分析は抜きにして、起きてすぐに「俺号泣。」の部分を思い返したときにちょっと合点がいく感じがあったのです。
人間が悲しく思うのって、いとおしい感情の変化形なんじゃないの、っていう。
いままでいとおしく思っていた対象が失われるか変化するかして、自分のいとおしいっていう感情をそこにそそぎこむことができなくなったとき(できなくなることが予想されるとき)に、はけ口を失った“いとおしエネルギー”が自分のカベを超えて悲しい感情に変化しながらあふれ出すのかなあっていうふうに考えるとすべて説明できると思う訳 です。そんな気がしませんか(何

べつにここに書いたのは考えたことをメモするためでとくに深謀遠慮とかはないんですけど、それにしてもあまりに一気にいろんなことが説明できすぎて逆に厭だなあ。