忘れること、とまどうこと

何が強い選択なのか、という疑問にはようよう答えが出つつあるわけです。いつか「権利的めくら」の話をしましたが、自分の権利や自分の可能性、快い思いをすることができる権利のようなものを、なにかの甘ったれた感傷とか質の悪い快楽(だと勝手に思うもの)に流され、それにしたがってあえて見送ることは弱いことなのです。
もちろん、何でもかんでも忘れてただ前にだけ進み続けるっていうやりかたがいいと言ってるわけではないです(それがほんとうにいいか悪いかは別として、俺は個人的にそのやりかたは採択したくないわけです)。
人間として生きてる限り、とまどい立ち尽くすこともありましょう。感傷もおおいに結構。というか、むしろそういうものはちゃんと生きるってことの要素だと思って、シアワセで充満した生活だけが価値を膨らませるわけじゃあ断じてないと思うわけです。
長い時間それらにひたっていることも否定しないです。そういうものにしかからだを預けることのできないときはそうすればよろしい。そういう意味では甘いことを言ってるっていうのはわかってます。
というか、俺の話に必要なのは良識です。一般論にはならないけれど、俺は俺の行動や言動や思想をたばね、俺のありかたを実行する良識者としての彼を信用します。だから、
抵抗できないと彼が思ったのならそれはほんとうで、そこにはその他の可能性はどうやっても存在し得ないのだと俺は理解します。
でも、できると彼が思ったのなら、それで彼が俺にそう言うのなら、俺は彼に「やろう」と言わなければならないのです。それが良識者たる彼に対する良識者たるべき俺の責任であり、規則であり、理想的性質という意味での強さなのだと思います。
その彼と、彼でない俺、という関係の上では、俺はふつうの人たちと同じように、あるいはけっこうな確率でそれ以上に弱いのだとは認めざるをえないのでしょう。まあ、でも彼彼といってもそれは結局は俺なわけでwだから、ある意味「やろう」って言えばそれで済む(と心から信じることができる)っていうのは幸運なんだよねぇ。
「やろう」ね。やらなきゃ。