嫌われ松子の感想。

いまさらですけど、「嫌われ松子の一生」みてきました。極力抽象的に書くようにはするけど、以下ネタバレに注意されたし。
冒頭のスーパービッグゲスト(木村カエラではないほうの)*1にひとりほくそえんだりもしたけれど、すごく心が痛い映画でした。
松子が幸せだったかと言われれば、何回も幸せな時期はあったにしろトータルで見れば全然不幸せだったのだと思います。というか、松子が彼女自身のせいでいろんな苦難にあったのかというとそういうことではなくて、ただ彼女(や彼女に決定的な影響を与えた人々)が人生の重要なポイントで不幸せだったせいであーいうことになったのだと思います。
 
話題の「デスマーチ」ではないけれど、近い未来に破綻することはもう決定していて、あとはそれが何をきっかけとして露見するかというだけの話になっている場所というのが世の中にはあるわけで、まずはじめに松子の人生に暗い影を落とした家庭の話にしろその後の話にしろ、松子はたぶんずっとつづけてそういう場所に迷い込んでしまったのだと思うわけです。そして常にその「きっかけ」を受け取って本格的にその場所をぶちこわす役を担わされていたのだとおもいます。
それはたぶん、だれかがやらなければならなかったことでした。
でも、「出て行っても地獄、ここにいても地獄……それなら!!」という場面がありますが、彼女はそういうことをわざとやっていたのだと思うわけです。ジリ貧よりは華やかな破綻を選んだんだ、というと言葉が陳腐になっちゃうけど、それぐらいひとりぼっちの生活は彼女には耐えられなかったのだと思います。
たからたぶん、そういうときには「ここにいる地獄」を選ぶであろう俺としては「松子は不幸だった」と言ってしまうんでしょう。
 
俺とかほかのみんながこの映画を見ていてつらいのは、そういう松子の強さというか、愛情をあきらめない態度が暴力的に裏切られてゆくようすが見るに耐えないからなんですよね。松子の心はある意味では理想型であり、誰もが彼女にハッピーエンドを望むのに、彼女が何かに対してすべてを捧げたその代価として与えられかけた幸せは、彼女の手が届く前にぷいと向こうを向いてしまう。しょうがないんだよ、わかるわかる、そういうことってあるんだよ、でもそれは松子にだけは起こってほしくないんだよっていう松子をとりまく現実に対する願いとか、正しい想いが報われないことはあってほしくないという現実社会に対する祈りのようなものとか、そういう気持ちが胸を締め付けるのです。
 
 
事実だけを見るとエキセントリックであるとしか言えない松子の生涯に、それでも見ている人がみんな共感のようなものを感じて涙するのは、自分が今まで受けてきたいくつかのひどい仕打ちを、でも人間として生きるために涙をのんで我慢せねばならなかった数々の仕打ちを、松子がぜんぶ背負ってくれるからなのだと思います。
そしてこの映画を見て流す涙は、たぶん自分が過去にひどい怪我を負いながら唇をかんでこらえた、そういう種類の運命の暴力のようなものに自分が出会ったときの涙なのだと思います。
 
人間の価値って何をしてもらったかではなく何をしてあげたかなんだよ、という話は原作には出てこないらしいんだけど*2、それがたぶん松子をねぎらって肯定する最後の言葉なのでしょう。そして、われわれはみんな最終的には自分が楽しく暮らしたいしそのための準備で精一杯なんだけど、でも本当は自分の隣の人にも幸せになってほしいと思ってはいるんだよ、というささやかでちょっとうしろめたい善意を松子は肯定してくれているのだと思います。
まあ、いうなればキリスト教でいう神ですよね。映画の中でなぞらえられていた通り松子の役目は神なのでしょう。
下妻物語」と同じ監督さんだという話を聞いたのだけれど、俺はこの人の撮り方が多分好きです、すごく。

*1:なんのことかわからない人は男に生まれ変わって煩悩だらけの人生を送ってからもう一回映画を見てみてね☆

*2:てか原作ものなんだね、これ!