横文字の無思慮な(無思慮に見える)日本語彙への導入を憂える人々へ。

ウェブサイト、コンセンサス、メタボリック、マニフェストセルライト、ストラテジー。。。
横文字を注釈なしに理解できる人はいない。
もともと他の言語に存在する語なのだからわかる人にはわかりそうなものではあるけれど、
ストラテジー=strategyであるとはいえても、metabolic=メタボリックとは言えないかもしれないから、元の単語=カタカナ語というわけにはいかない。というふうに横文字にはカタカナ表記の場合にのみ発生するニュアンスがあるというのはそれこそコンセンサスだと言えると思う。
でもそういう外国語のカタカナ化による意味の狭まりについてはまた別の機会につついてみるとして、交換可能なカタカナ語とその訳語についてちょっと思うところがでてきたのでメモしておいてみる。
たとえば、「バーチャル=仮想」であることはみんなが知ってると思います。
日本語が書き言葉であり英語が話し言葉なんじゃないかというのはずっと前から思ってることなんですけど、
実はカタカナで「バーチャル」と書いてあるのを読むのと同じぐらいに口頭で「仮想」と言われたのを聞き取るのはわずらわしいと思うんです。
漢字が優れているのは文字自体が意味を持っているからで、つまり「見る」ことでいっぺんにその語の意味が分かるっていうことなんだけど、
そのぶん音が短くなったり単純になったりして重複したりしやすくなっていると思うわけです。あえて言うなら、漢字は表意文字というけれど、逆に言えば音には意味はなくて、それはシニフィアンである文字に対するただの索引でしかないわけです。
そしていわゆる横文字は逆に音自体がシニフィアンとして意味をかかえているといえ、非カタカナ語に対して特長と欠点が入れ替わっているといえるのだろうと思います。
そういうカタカナ語は、読み書きではたしかにとてもやっかいな存在だと言えると思うのですが、場面がリスニング&スピーキングとなるととても使い勝手がいいと皆が感じるのでしょう。だいいち、「読み書き」に対応するような話したり聞いたりすることをさす言葉からしてないですから*1
日本語は書き言葉だと言うのはもう通算では十回目ぐらいかもしれませんが、しかし今の第一級のメディアと言えばテレビであり、テレビにおける言語的な情報伝達は、ほとんどとは言わないまでも多くの部分が音声によって行われているのが実情だと思います。
なぜテレビ画面にテロップが出るのか。テロップは、一瞬で消えてしまう音声情報を固定的なものにして提示する手段であり、またおもしろいところや重要なところを視聴者のうちカンの鈍い人々に示したり、あるいはよりおもしろかったり重要にする手段でもあるのだと思います。
でも、いままでの話の流れを汲んで考えると、それは書き言葉たる日本語を円滑に伝達するためになされた一時的な「書く」という行為なのではないか、という気がしてくるわけです。
そしてメディア(=テレビ)でやたらと横文字が好まれるのも、それは単に日本人の怠慢というだけでは終わらず、話しメディアに流すためにことばをハナシコトバナイズする長期的な作用の現れなのではないかと思うわけです。
考えてみれば、やまとことばというのは表音言語でした。万葉仮名なんかつかって漢字の意味なんて知るか、という態度だったわけです。というのは「日本語は書き言葉である」という主張と矛盾してきてちょっと困るのですが、案外日本人というのは根底のところでは文字が意味をもつという形態がキライなのかもしれないっすね。
さて。いまのところキーボードと電話回線を用いた書きメディアであるインターネットの台頭はこのさき日本語をどっちに導くんでしょうか。技術の進歩とともにインターネットまでもが完全な話しメディアになる、とはあんまり思えないんですよね。。。

*1:「会話」は却下。「読み書き」はもっと中立的な言葉のはず