善悪と損得勘定が同じではいけない理由はなに?

一念発起してソクラテスのいう通り「善く生き」ようと思ったはいいんですけど、善と悪の区別のしかたが何かわかってないときちんと自分で意思決定できないぞ、ということで結局「善ってなに?」ってところに帰ってきてしまいました。
俺の中では善悪=損得、なのです。でもその足下のでかい石を投げるのは待って、少しだけ弁解を聞いてください。知ってる人は知っているとおり俺はダメなヒューマニストではあってもイタいニヒリストではないのです(何
 
人間の最終目標が幸福であり、善なる世界というものの究極形が人間すべてが幸福である状態であるとしたなら、とりあえず大づかみに「幸福=善」であると言えるのだと思います。
で、自分がより幸福になる行為を「得をする」ということとすれば善悪=損得、ということになるでしょう。でもここまでは単なる言い換えなので、まだ弁解のかけらもないってことはわかってるのでその手に握りしめてる石はとりあえず下に置いてください。
じゃあなんで善悪=損得であるといういいかたがみんなの反感を買うかというと、ひとつにはまず「得=幸福」という図式に納得できない人が多いのだと思います。でも得という言葉は、今は幸福と同義であるという便宜的にさっき定義したとおりの意味になっているということを思い出してもらえば、納得できない人は過度なセンチメンタリストかまったく話を聞いてない人なのだと思います。ちょっとそーいう人たちと関わっているほど俺はエナジーに溢れてはいないので、ここは素通りしたいと思います。
 
でも、いちばん問題なのは「自分がより幸福になる」という言い方が他のみんなのことは知ったこっちゃないぜ、という感じがするところなのだと思います。ので、俺の言っている「善悪=損得」ではそうではないのです。
つまり、たとえ自分に幸福がやってくるとしても、それが原因となって後の自分がより大きい損をしてしまったならそれはトータルで損であり、悪です。そして誰かに害悪をなすということは後の自分が損をするもっともよくあるパターンなので、それで自分が幸福になるとしても軽々しく「それは得である」とは言えないわけです。
あるいは、自分の得がうまく彼の得を呼びそうなので「よっしゃ」と思っていたしても、それがもう一段階向こうで彼女に害悪をなすかもしれないということを考えれば、(すごい間接的でめんどくさいのですが)自分が思わぬ大損をすることだって考えられるわけで、行為に至る前に彼女のこともちょっと考えなければならないことになってしまうのです。

というように、結果を無限遠まで広義積分した結果一定以上の得があるとされるものが善なる行為であり、一定以上の損を呼ぶとされるものが悪なる行為であり、あまり損得がないものが普通の行為であるというのが俺の言いたいことなのです。
 
ところで、普通の感覚でいうと善悪ってのは

  • 宗教で定められていて、信仰とともに神に与えられるもの
  • 社会通念として存在し、常識として周りから吸収するもの

のふたつぐらいなんじゃないかと思うのですが、これじゃ両方とも他人から与えられたものなので、一回は疑ってみたくなると言ってもバチはあたらないでしょう。前者だとあたりそうだけど。
じゃあそんな誰が考えたかもわからないアヤシイものがなんで通用しているかというと、それらが実際にやってみるとなんでかはわからないけどほんとに得をするからなのだと思います。
さっきも言ったように、いま話してる損得勘定は波及効果をどこまでも考えていかなければいけないので、ひじょーにめんどくさい。ということで、こういうときにこういうことをしたら損をした、得をしたという話が太古の昔から積もり積もって結晶したものが世間によくある善悪ってもので、よくあるケースに対していちいちそれについて考えこむ前にせっかくだから俺は先人の知恵を使うぜ、というのが既存の善悪に従うということなのだと思うわけです。
 
このへんで「善悪=損得」という言い方がそれほど害があったり不自然だったりするものではないんじゃないか、っていう気がしてきませんか?
あえて言えば自分が報復を受けないとすれば彼に害をなしてもいいということにってしまう、とか、いろいろつっこみどころがある言い方なのはわかってるんですけど、これが俺の中で一番実感に合う安定した考え方なのです。
というわけで、より精度の高くつっこみどころのない善悪の基準の取得を目指して、善悪と損得勘定が同じではいけない理由を公募します。
どんなものでもエニシングOK!(懐かしい)
締め切りは俺が死ぬ前日必着ってことで、どしどし応募してください(何