お道具箱説に関する追加論証。

前にmixiのほうだったかな、俺が昔ほどぐちぐちとこんがらがったことを考えなくなったのは、もう考えることはあらかた考え尽くしたので、それぞれの結論がきちんとお道具箱にしまってあり、意識することなくそれを取り出して使っているので、いろいろのことに対する自分の挙動がすらっとなったように見えるからなのか、それともどれだけ痛めつけられても耐えて/抗ってみせる!!という気概というか堅牢さのようなものを失ってしまって、ただ自分をまもるために、ああいうものごとと関わらないように目をそらして下を向きながら歩いてるっていうことなのか、
っていう話をちょっとしたと思うんですが、やっぱりたぶんお道具箱のほうだと思いました。
俺が生まれ持った環境や遺伝子や、その他物質ならざる要因も含めての生まれた時点での大まかな方向性のなかで決定的に悪い方向を向いていたものはいくつかあって、それは人生の様々な状況において何度も具体的な悪として顔をのぞかせてきたし、これからもそうであろうわけなんですけど、だからといって俺やその他多くの(というか人類のうちほどんどの)悪い方向性をどこかしらに生まれ持った人々はその方面において永久に救われないままかというとそうではないわけです。
人間は学ぶ動物だから、失敗したことやそれについて考えたことをお道具箱にしまいながら、自分の穴を塞ぎながら生きていくことができる。おれが自分が嫌いだったのは、お道具を大量に生産してお道具箱にしまいこむ作業の過酷さにうんざりしていたからだと思って、いまではおれが自分が嫌いかどうかはよくわからないけれど、わりと年相応といっても相応しいぐらいには道具は集め終わったので一服しているのかなあと思ったわけなんです。
でも、もしそうだとしてもおれがこれからもいろいろのものをせっせと作ってお道具箱にそれをしまい込んでいかなければいけないということには変わりはなくて、同時にそれを怠りさえしなければまあまあ人間であると主張しても怒られないぐらいの存在にはなれる(はず)なのです。
ここまできたら、多少貪欲に新しい道具のネタを探しにいくぐらいのことはしなきゃいけない。自分が「俺って気が利いてる!!」と常に思えるように行動しないと普通とかそれ以上の評価は得られないだろうことがわかってきたので、「まあ前にこんだけ気を利かせてあるから今回はいいや」的な考えは破滅への誘惑だと思わなくてはいけないわけです。
たとえば、嘘をつくのが悪いことだといわれているのは、他人に迷惑をかけない嘘でも、自分や周りの皆に回復不能な迷惑をかけるきっかけのきっかけのきっかけぐらいではあるということは否定できないので、大切なのは「嘘をつかない」ことではなく「嘘をつくときには気を緩めない」ということだと思うのです。
結局「気を抜かない。抜いたら死」という信念を強く持って挑まなければいけない、というのが最も抽象的で万能な言い方なのだとおもいます。どんな大義名分があっても、気を抜いたら死んでしまう。それだけはキモに命じて生きていかなければいけないのだろうなあ。

と、今日バイトの先輩の話を聞いて思いました。