人形と人間の違いってなに?

http://www.nicovideo.jp/watch/sm2266321を見たあとにこんなことを書いてみます。
押井守イノセンスで人形と人間がいかに近いかを力説していたけど、それはやや人形好きの演説がまた始まったよ……みたいな感じの内容であったようにおれには感じられたし、結局は攻殻機動隊用語の「ゴースト」に阻まれてそれが同一のものであるということは言えてませんでしたよね(何
どれだけ技術が進んでも人形はプログラムされたことしかできないという意見に対しては、人間も1億年かけて設計されたハードウェアの上に数十年かけて親や社会がコーディングしたプログラムが載っているにすぎず、プロジェクトの規模が何桁も違うのだから人形の仕様は見劣りするに決まっていて、けれどもその原理はいっしょなのだと反論することができると思います。
あるいはアウラを引き合いに出す人がいるかもしれません。人形に創造行為を行うプログラムを与えたとして、その人形が創作したものにアウラは宿るのかと。
もちろん予め決め打ちの創造物データを用意して、それをいじることで見せかけの創造行為をやっつけるようなプログラムの乗った人形の創作物にはそんな可能性は考えようもないですけど、たとえば現在までのイメージの蓄積や人形が他の人形と区別できるいち個体として持っている性質をもとに新たなイメージを生成するプログラム、つまり人間の創造行為を根本からエミュレートするプログラムを載せることができれば、その創造物がアウラをもつことはおおいにありうるわけで、それはもはや人間の創造物でもアウラをもたない場合もあるという不確実性と不可分なものでしかないと言えるのだと思います。
要は、人形にどれだけ精巧なハードウェアやソフトウェアを与えることができるのか、という話になってくると思うわけです。そして現在のところ人間の仕様と人形の仕様には天と地ほどの差があるので、空中の適当な部分に仕切り線を引けば人間と人形が区別できるようになっているよ、便利な世の中だねぇ、というだけで、本質的な、根本の違いはおそらくないのではないか、というのがこのエントリでのいちおうの終着点であるとしておきます。
そうすると、それじゃあその人形には意識はあるのか。クオリアはあるのか。ということを述べたてる人が現れてくると思います。というか、それがたぶん最も本質的な論点なのだと思います。おれはそこまで哲学に明るくないので、クオリアだとか哲学的ゾンビ論とかがいまどうなっているのかはわからないんですけど、
もし意識と名のつくもの、物理存在では解明しきれないなにかしらの世界が人間の中に存在するのであれば、それの有無が人形と人間の差になるはずだし、存在しない、あるいはわからないということになれば人形と人間を区別しているのは圧倒的な機能の差による隔たりだけであるということになるんじゃないかと思ったりするわけです。まあ、要はそれがゴーストで、攻殻の世界ではその概念は無批判に(というかあの世界のなかで検証された結果『存在する!!』ということがわかったんだろうけど)肯定されていたんだよねえ。

まあでも、たちが悪いことに人形に相対する一部の人はその中に意識を想定してあつかうので、そのへんの話は押井守に返送したいなあと思う訳なんですけども。