W.S.R.T.K.N.I.思い出が消えかけているのは悲劇なのか?

まえは昔のことをむさぼって吸い尽くすように思い出して反芻しまくっていたはずなのに、最近昔のことを思い返すのがおっくうになってきたように感じます。
これはまずい。と思うんだけど、なんでそれがまずいの?っていう思いもあります。
むかしあったいろいろなできごとを忘れさったおれってどういう存在になるのだろう。
忘れたくない思い出って、みなさんあります?おれはたぶんないと思うのです。ある人はここで退場。
かといって突然ニヒリストになったわけではくて、もちろん昔あったたのしかったことや悲しかったこと、可愛かったひとやうつくしかったものとか、そういうのに愛着がなくなったわけではないんだけど、
それらの事物は「できれば覚えていたいもの」であって、現在のなにかかそういう記憶かの一方を選んで他方を切り捨てなければいけない、となったときに
現在のことに勝てるものがないなあと思ったわけです。
おれはものすごく恵まれてて、本当の意味でなにかに不自由したってことはないと言ってよいのだろうし、そのことは僕の唯一の名前のない神さまに何度となく感謝したと思うんだけども、
でも生きてきてよかったとか人間ってすばらしいとか、そういうある意味で余計なもの(というかオプション的なもの?)をたまわったことはほぼなかった気がします。
それはおれがひねてたせいかもしれないんだけど(というかその疑いは濃厚)、とにかく主観としてはなかったわけです。
でもいまはそういうものが手のなかにあるっていうことで、いままでのことどもが色あせて見えるようになってしまったのかなあ。
うん。でも正直それらのことどもは色あせても仕方ないぐらいのもんなんだよなあというのが忌憚のないところです。
いままでやっていたことは、麒麟の田村が昔「味の向こう側」を期待してご飯を口の中で噛み続けていたように、ごく微量な幸福感をもとめてひたすらむかしあったことの良い点を探しまくっていたっていうだけのこのなんじゃないかなあと。

でも、そんな見方が正しいのかどうかは5年後ぐらいに振り返ってみないとわからないと思う。

だから、思い返すのはめんどくさいけど忘れちゃうのもこわい。ジレンマですね。
おれが将来奥さんをもらって子供を産んでもらうことがあったら、その子には生きててよかったっていう概念が理解できるようになるまで成長したその日から生きててよかったって思ってもらえるようにしたい。
そうして、欲張りかもしれないけどその子にも彼あるいは彼女の子供に対して同じことを思ってほしいとおもう。そうするにはどうやって育てればいいんだろう?