しかしさらに泣き言をいう。

覚えている、とか思い出す、という感情ってどうにもこうにも一方的で、だからすごくさみしいなあと思うのです。
たとえば高校の同級生であった@@さんはおれの現在にすごく影響を与えていて、たまに名字を忘れることはあるにしろ(何)おれのなかにはいまでも彼女が生きているわけです、大げさな話。
でも常識的に考えて彼女は俺のことを、まあ最悪忘れ去っているだろうし、そうでなくともいち知人というか友人というか、知らぬ同士ではないよぐらいにしか思っていないだろうというのが善良な判断だと思うわけです。
で、それがその子ひとりだけならまあガマンもするんですけど、そういう空虚な場所へのポインタがおれのなかにはいっぱい残っているから、なにかの拍子にそれらを参照するたびにNullPointerExceptionがわらわらと返ってきてすごく寂しくなるのです。そしてきちんと例外ハンドラを実装してそういうのを落ちずにキャッチできるようになったのはけっこう最近のことなのです。

おれは昔ふと、玉川図書館(ローカルネタ)の前で考えました。「だれか一人の人を救うまで、自分では自分の命を絶つまい」と。それはそのときのおれにしてはなかなか希望的で建設的な意見だったと思います。
そしてそれから5年とかそのぐらいのあいだに、行きがかり上おれはいくつかの善行(というかその時のその人の現在によい影響を与えるであろうこと)をやりました。それはけっこう何個かあったので、全部寄せ集めると人1人分ぐらいには足りるんじゃないかと思います。
でもたぶん自分では自分の命は絶てなくなったであろう今になって考えてみると、そのときのおれの意見はやっぱり偽善だったのです。偽善というとなんだかご大層だけれど、結局おれはだれかに施しをしたら、その時はべつに何とも思わなくても後になってだんだん彼(あるいは彼女)が一族郎党引き連れて涙ながらに感謝しにやってこないことに対して不満を持ち始めちゃうぞということです。
ていうか、それは好きになるという感情に置き換えられる気がしてきた。
おれはたぶん彼女(あるいは彼)を好きになることで、それを理由としてその人のためになにかをやるので、後になってそこに乙女心だけが残ってしまうのだと思います。

べつにおまえがやったことなんて大した事なもんか、という批判があると思います。それはおおいに正しいと思う。でも屁理屈で反論するとすれば、それはあとあと命取りになるような穴をふさぐ行為だったかもしれない。まあそういうことするときにそんな風に考えていちいち判断してるわけじゃないんだけれど、じゃあ冷静になって今後一切そういう事はやめようかなと考えると、やっぱり致命的なケースを取りこぼすことが怖くなって同じ事を続けてしまうんだよね。
そして同時に、他の人のかつておれを参照していたポインタがいまぬるぽエラーを起こしているかもしれないってことを考えると(いや、おれには全く覚えはないけど……でも覚えがないからこその問題なのであって)、なんでそれを俺が知らないのか。という憤りのようなものを感じるわけです。もちろん知らされたところでそんなの知らねぇーよカスということも多いだろうしどっちがいいかは微妙なんだけれど……。

そういうことをいろいろ考えていって、それが人生ってもののさけられない結果なのだとしたら、なんだかすごくつれないなあと思ってしまうのです。「それが善良な判断だと思う」って、なんて悲しいことばなんだろうって思ってしまうわけです。泣き言終わり。