井上陽水の「傘がない」について。

歌詞を調べようと思って「自殺する若者が増えている」で検索したら、以下のようなサイトがひっかかった。勝手に音が出るひからびた糞のようなページなので注意してささっと読んでみてください。
ttp://ongakukan.music.coocan.jp/musicstudio/2-ka/mkasaganai.html
音が流れる時点でちょっとあちゃーな感じは出てるんですけど、ちょっと我慢して内容のひどさも確認してほしいです。アンドレとかカンドレとかどーでもいいわ、とかいう個々の部分への悪口もあるんだけど……
「僕のなかの壊れてない部分」のときもそうだったんですけど、おれはどうやら今考えているものについてインターネットで頭の悪い言明を見ると自分の言い分を吐き出したくなる性質があるみたいです。のでその衝動に押されてここにそれを書きます。
傘がないはおれが知っている陽水の歌の中でいちばん状況が分かりやすいというか、日本語でおk的な歌詞が多い陽水さんにしては我々と通じるところのある詞だと思うのです。
まず最初に「都会では自殺する若者が増えている」と言われたときに、うさんくせぇこと言うなあ陽水どうしたんだ陽水、マスコミに毒されて脳みそ腐っちまったか陽水、と思いますよね。でも続いて「今朝来た新聞の片隅に書いていた」「だけども問題は今日の雨 傘がない」と来て、なんだ陽水わかってるね陽水、疑って悪かったな陽水、となります。
ここは、最初の陽水大丈夫か的な違和感を解消しつつ主題を持ち出す、というか、傘がないというわりとどーでもいいことに、さらにどーでもいいマスコミの扇情的な主張を踏み台にすることでテーマとしての格を与えているというか、そういう感じだと思います。陽水さんは草野マサムネとかと同じジャンルのイミフ系の天才だとおれは感じているのですが、こういうとこには彼の計算(あるいは感性)の鋭さが見えますよね。
ともかく、深刻な(であるべき)ことを伝えるニュースへの冷静な視点があります。で、あとはひたすら雨の中傘もないけど君に会いにいかなくちゃいけないというセリフが続きます。ここいらで、行かなくちゃ……行かなくちゃ……という連呼にちょっとぞくっとしたものを感じないでしょうか。「君に逢いにいく」ことへのある種の偏執というか、とにかくちょっと常ならざるものが潜んでいる感じがするわけです。
で、サビの最後の「それはいい事だろ?」です。自分の偏執を肯定しつつ、でもあえて訊くってことはそれに対する冷笑的な態度も示しているわけです。うーん。このへんは井上陽水の「みなさ〜ん、元気ですか?」っていうしたり顔の笑顔がありありと浮かんでくる感じですね。
あとは2番で同じことを言っているだけです。最後の行かなくちゃ……行かなくちゃ……の繰り返しがまた怖さをもり立てます。
この歌は1972年発表ということで、あさま山荘事件の年であり世相としては体制と反体制みたいなものが色濃くある時で(そういえば村上春樹の双子と暮らしながらピンボール台を探し続ける小説のタイトルにもなってる年ですね)、だからこそ革命とか言っておけば何となくいいんじゃないかと思ってるやつらだとか、マスコミという鏡、それが映す盲目の大衆、そういうやつらにバカメと言ってやれ、みたいな面があるらしいんですけど*1
ただ、スピリチュアル革マル(笑)反体制でカレの気を引いちゃえ(笑)安田講堂で頑張る自分を演出(笑)みたいな感じの、マスコミがだいたいゴミだと分かってしまった現代においては、大衆への冷ややかな視点というものすごく納得のいく事柄のうらでスッと取り出される主人公の心根の底知れなさ、空恐ろしさのほうが歌の一番のキモとして指摘するにはわかりやすいと思うのです。

 
最後に上述のページの人の悪口をもう一個だけ言いたいんですけど、「冷たい雨が 僕の目の中に降る」って、「心に浸みる」の対句なわけだから雨が目に入ることなわけないやろ!!!!!
雨が心を冒して君以外を考えられなくするっていう1番の心を目に変えて、まあ見えないと考えられないは一緒だから結局一緒なことを言ってるだけだよなあ。こんな人がフォークを聞いてたのかなあ。まあ自分の若い頃の歌にいろいろ好き勝手を言って公開したいがためにカスラックに金払うような人だからアレな人なのは火を見るより明らかなんだけど。。。