長門有希に端を発するタマシイと同一性への考察。

ハルヒに出てくる長門は、「対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インタフェース」と名乗っていて、「ようするに宇宙人か」ということになっているよね。
ところがインタフェースという言葉を聞いちゃ黙ってゐられねゑ!というのがコンピュータ界隈に住む者の性でして、
情報統合思念体が人類とコミュニケーションを成立させるために用意された物理的なインタフェースであり、宇宙人がぬいぐるみをかぶっているようなものなのか、
それとも情報統合思念体と人類の間の情報を橋渡しする概念的な意味でのインタフェースであり、一つの個性として独立した存在なのか、
ということはとても気になることなんですよね。
というのも、後者であれは心置きなく長門かわいいよ長門などとよしよしできるのだけれど、
もし前者であった場合にはあの少女の姿をしたものの奥にうじゃうじゃしたわけのわからないものが潜んでいて(まあ可視光での観測が不可であるとはいえ)、
ネトゲの女キャラのプレイヤーを相手にしているような危機感が生まれてしまうのだろうと思うのですよ。
でも、じゃあその危機感ってどこから来ているのかというと、
見た目や聞こえる音や、その他の直接感じ取れる具体的な(ある意味低級な)情報と、その個体の本質というかタマシイというか、そのようなものの結びつきの問題じゃないかと思うわけなんですよね。
前者であれば、たまたま宇宙人が長門のぬいぐるみを着ているだけで、ジャイ子型のぬいぐるみを用意すればそれと可換であるし、国木田型のぬいぐるみを用意すればそれとも可換である、ということが怖いのだと思うわけです。
いやぁ、国木田ならぜんぜんいけるけど。(何
つまり、そうであるとすると目の前にある長門かわいいよ長門な具体的な情報はぜんぶ無意味になってしまう、
魅力的な具体性はタマシイと硬く結びついて不可換であるときに初めて価値がある、
そういうふうに考えさせる動機をわれわれは持っている、ということなんだと思うんですよね。
幸いにしてというべきか、われわれのタマシイは体に縛り付けられていて、ぬいぐるみを自由に取り替えるなんてことはできないから、
町中でキレイな女の人を見かけたときや、サークルで可愛いむすめと友達になったときでも、
「いやまて、あの子の具体的特徴はマツコデラックスと可換なものかもしれない。。。」だとかいうふうに悩む必要はないわけです。
いや、ないというと嘘になってしまうな。
つまり美容整形という手段ですね。
でも、たとえば目の前の女の子に施された手術が完璧であり、健康上とかのリスクもなく、まあ心配といえばその女子と子供を作ったときに整形前の容姿が遺伝してしまうことぐらい、という条件を仮定すると、もう本能的な恐れはそこにはなくて、あとは個人の主義主張、倫理観あるいは嗜好の範囲の話になってくる。
というより、われわれは漠然と整形という可能性が怖いのであって、それが実際に形を持って現れるとすでにタマシイと結びついた立派な形質の一部として認識されるのかもしれないよね。
われわれが心から人の具体的特徴とその奥の本質の結びつきを絶対視しているのか、
あるいはその結びつきが事実確固たるものであるからそう考えるようになったのか、というと、たぶん後者だと思うんだけど。
 
で、そこまでやってくると、じゃあぬいぐるみじゃないほうの長門も実際のタマシイなんてものがないアニメキャラなんだから、
タマシイと結びつかない魅力的な具体性ってことで怖い存在になるんじゃないの?という疑問を設けることができます。
でも、自分の胸に手を当てて考えてみると、こわくない!ふしぎ!!ということにすぐ気づくよね。
むしろそういう架空の存在はどんどんと好意を吸い上げられていくような力さえ持っていて、まったく逆の現象が起こっている。
それはなぜかというと、彼女達はそこにある魅力的な具体性だけがアイデンティティであり、タマシイがないということによって逆に不可換性を保証されているからだと思うわけです。
たとえば長門の具体的特徴がジャイ子に変わったら、それはすでにジャイ子であり長門ではないというふうに、彼女達の本質が100パーセント我々に知覚できる情報で構成されているからだと思うわけです。
盲信できるわけですね。
 
こういうふうに考えていくと、かんなぎの作者に単行本を破り捨てて送った人の気持ちもなんとなく推し量ることができる気がします。
つまり、さきほどの長門ジャイ子の例にはひとつだけ抜け道があって、そのコンテンツの提供者が「長門はじつはジャイ子だったのでした!!」と言えば、長門ジャイ子の間に同一性が成立してしまって、盲信していたものがめちゃめちゃになってしまう。
 
宇宙人より未来人より、超能力者よりも、げに恐ろしきは人間なりけり、というわけですなあ。。。
 
 
 
……まあおれはみくる派なわけだが。
あれ?オチてない?;
とにかく、人間はどうも直に目で見て手に取れる情報が大好きだということですよね。そしてそれが本質であってほしいと切に願っている。だから、タマシイだとかの本質とそれが硬く結びついていることを求めてしまうんでしょうね。
それがたとえば女子にとっては子安声で耳が孕んだwwwwwwとかっていうことだし、男子にとってはおっばいだし、ということなんじゃないでしょうか。というみもふたもない結論で終了。