マシュー・バーニー展。

というわけで今日は展示のほうをみてきたのです。
やっぱり映画を見といて正解なのかと思いきやうーん、どうだろ。
展示先に見れば映画がよくわかるし、みたいな感じだと思った。
展示室14だっけ、なんか「円形の展示室一面にでろーーーーっとひろがった油脂」ってカタチの彫刻*1作品は、うっわぁ〜って感じでなんか妙ににやけてしまった。
なぜかはわからぬ。
 
拘束のドローイングというのは、その名のとおりドローイングに拘束を加えた作品群(およびその制作過程を記録した映像群)なんですけど、
まあ拘束のドローイング1から7ぐらいのあたりはほんとに身体をさまざまに拘束してドローイングをするわけです。
このドローイングっちゅうのもたちがわるくて、もうなんか絵画をかこうとか、なにか内にたぎる衝動を表現しようとかそういう気がさらさらないのであります。
そして8ではドローイングした結果の作品をケースに閉じ込めて拘束する、みたいなコンセプトで、
で、、、、9はなにをどう拘束した作品でそのどういう過程があの映像なんだろう。。。
とにかく、あと、シリーズには10と11がありまして、それぞれ金沢21世紀美術館で製作されたものなのです。
とくに11(たぶん。10だったかな;いや、11でいいはず)の展示は圧巻でありまして、背の高い展示室の壁に上に向かってフリークライミング用の突起がぽちぽちと続いていて、天井付近になにやら描いてあるわけです。
これが実際にマシューがこの壁をのぼって描いたっていうんだからもうなんちゅうか。。ね。マシューのくつのあととか壁に残ってるし。
そういう意味でも生々しい感触の残るライブな作品でした。
 
問題は拘束のドローイング9ですよ。
テーマは「日本」「捕鯨」「作法」「茶道」みたいな感じです。あとビョーク(何
あとえび。まじでえびの意味がわからん。。なぜえび。
 
いま9についてちらっと思ったのは、破壊(損壊?)と(変容による)創造ってどこで違ってくるんだろうってことです。
でろでろの油脂は型による拘束をはずせばでろーっとなってしまうけど、
俺が(拘束がどうたらこうたらとかを知らない状態で)映画を見て思ったのは、なんでせっかく型に流してかためたのにそれがでろでろに崩れていくのを座して見守っているんだろうということで、
それは映像で型をはずしてたおっさんとかクレーン技師の人(型ってかなりでっかいのでクレーンではずすわけです)もたぶんそんなことを思ってたんじゃないでしょうか。
つまり俺とかたぶんそのおっさんたちはそれは「破壊」だと思っていた、というわけなのでしょう。
でもそれはマシューにとっては創造の過程としての「変容」であったわけで、
ううむ、とにかく拘束を加えられたものの超回復*2とかいうゴタクなしにでもやっぱりそれは意味のある行為だったし、
拘束→解放→創造!という図式に従えばそれはまさにカタチあるものとして現れた創造そのものってことになるってことになるってことなんでしょうか。
「拘束→解放→創造!」ねえ。そういうのを寓意的にあてはめていけば映画もいくらでも解釈しつくせるんじゃないでしょうか。という気がした。
 
ひょっとして、9については
「拘束→解放→創造!」と「成形→解放→破壊!」っていう図式のせめぎあいなのかも。
ここでキモなのは、成形=創造でありながら成形=拘束である、という関係だと思います。
そういう意味では、なんというか、ミニマリズムとかコンセプチュアルアートの「芸術ってよくいうけどいったい何だ?」みたいな感じの『「○○ってよくきくけどほんとは何なんだ?」的なことを探っていくぜ』系のあれなのかもなあとも思った。
世の中のなにが創造で、なにが拘束で、なにが破壊で、それぞれが何の結果として、あるいは何の原因として現れているんだろう、っていう感じなんでしょうか。
うーん、まだまだ考える余地はありそうです。が、眠いのでねます(何

*1:彫刻って刻まなくても彫刻っていうのな。。。とここ半年ぐらいのあいだずーっと思ってるのでした。うーんポストモダン(何

*2:医学的には、筋肉の繊維がトレーニングなどで傷つけられたあとに、ちょっと量が多くなって回復する現象。マシューはこの理論は創造行為にも適用でき、拘束をうけた創造力は超回復的にもと以上のものを発揮すると信じているらしい