ふぃあえんへずぃていっ!

恐れることとか迷うことがいつも悪というわけではないとはいえ、
それは分類としてはまぎれもなく悪なわけで、
恐れや迷いとマブダチであるさすがの俺にも行くべきだとか動くべき時があるわけで、
でももちろんそれは、いま行けばうまくいくとか、あのとき動いておけばすばらしかったのにとかの瞬間ではないわけで、
つまり、行くべきとか動くべきと思って、それが本当の感想(あるいは判断)であるべきものなんだったら俺は俺を妨げてはならないのであって、
交差する道幅が同じぐらいの道路の左方からの交通は妨げてはならないのであって、
まさに思ったそのときに、っていうのはもちろんのこと、俺は未来とか過去の俺をも妨げてはならないのであって、
 
だから、いくらいつでも無意識に望んでるからって言っても、
意識的に望んでないならそれは望みたくないと願っている種類の俺にとっては枷になり、それ以外になんにもなりようがないわけで、
あるいはそれ以外のあらゆる俺に対しての話においてはなんにもならないのであって(つまり無なわけで)、
その望みってもんがいずれにせよ存在するとしたなら、
さっきの未来だとか過去っていう話の、とくに未来の俺を妨げないっていうためにも、
どうせなら意識的に望んでおいて、ほんとうだったら行くべだ!と思うようなときにきちんとそう思えるように、
っていうのはどこが「ほんとう」って言うんだっていう話に迷い込む危険をはらんでるにしろ、
そのときにきちんとそう思えるようにしないといけない。
 
だから、あまりに遠ーーーくにあるような、線遠近法のせいで米粒みたいになってるような、
そんなようなもんにも恐れることじたいは正当なんだろうけど、
あまりに恐怖に震え上がりまくって、
元来あるような捨てきれないような見ないふりはながくもたなそうな、
でもしょーもなくてどーしようもないような望みまであわてて手放すことにはメリットってないってことを覚えておかなきゃいけないわけですよ。
 
望みがかなわなかったらあんた死ぬよって教えてもらったとしても、
かなわなかったらかなわないで死ねばいいじゃん、
とかまで言う勇気は、あったらあったですごくいいだろうし、
なかったとしてももちろん対処する方法はあるだろうし(そしてたぶん俺にはその勇気はない)、
方法があるとしたら、どうにかして逃げきれるとしたら。
それは手遅れになるぎりぎりに行使すればいいだろうし、
もしその方法さえなかったとしても、
無意識に取り残した望みはどうせお棺の中まで後生大事に持っていくんだったら、
それって死ぬこととなんの変わりがあるんだろう?
ほんとに死ぬわけじゃなし、いつかなにかのきっかけで生きかえるくせに、
偶然べつの望みがかなえられたなら(そしてそれがすごいことだったならなおさら!)どっちの場合にしろ日なたに飛び出してアホかってぐらい喜び狂うくせにね。
 
 
ということを考えた日の夜、俺は俺が迷いつづけ恐れぬいたことが正解だった旨の宣告を受けたのでした。
もぉ嫌。こんなんばっかだから俺の迷いグセはいつまでたっても直らないのです。