宇治山哲平展@東京都庭園美術館。

宇治山哲平という人は日本の美術史のなかで名前がうもれかけている人らしく、ましてや日本人の画家というと藤田嗣治岡本太郎河原温ぐらいしか知らない俺は聞いた事もない名前だったわけなのですが、東急の電車のなかで積極的に広告してあったことと、バイトのコマ組みで3時間ほど間が空いてたこと、そしてバイト先から庭園美術館まで徒歩五分だという条件が揃ったので、まあこういう理由付けでもない限りあらためて行くことはないだろうと思って行ってきました。
幼い頃より絵がめちゃめちゃうまく(幼い頃の絵が実際にいくつか展示してあったのだけど)、そのまま版画家を経て純粋抽象の世界へ旅立っていった人ということで、いちおう版画とか、抽象に来る前の段階の作品もありつつも目玉は円熟期の○とか□とか△とかの単純な幾何学要素からなる不思議な作品だったわけです。
はじめのころは、幾何学的というよりはエジプトとかの原始美術を、それを思わせるような単純な色とカタチで置き換えて再構成する、みたいな感じだったのですが、だんだん自分のなかで目覚めてくるものがあったらしく、はじめいびつであった円はやがて正円以外見られなくなっていき、やがてアンバランスで静的な画面でもって空白と形態のバランスを表現する、みたいな感じになってしまいました。
この時点でもう宇治山ワールド突入中なのですが、はじめは閑散としていた静かな画面も年代を下るごとににぎやかに、左右対称になっていき、やがて5枚のキャンバスを十字状に配置した「漲りて四方に」でマンダラか!という境地に至っていました。でもその緊張も最後はまたとけてきて、晩年の作品「響」から未題未完の最後の作品にかけては非対称の静かな世界にもどっているところでした(追記:俺は個人的には緊張がとけて最終的に行き着く先がどのようなものだったのかをすごく期待してしまうのですが、やはり彼の作品の緊張がとけたのは彼の生命の致命的な線のようなものが切れてしまったのが原因で、緊張からの解放は弁証法で言うジンテーゼ*1ではなく、悲しき衰退だったのかもしれない、とも思うわけです)。
「漲りて四方に」は別格としても、俺はやっぱり抽象初期〜中期の単純で言葉少なな画面が好きかな。マンダラ状態に移行する途中では人の顔みたいな感じの具体的図像が見え隠れしてちょっと嫌な感じがして。十字のモチーフをつかった「希」は、たぶん画家の意向としてはキリスト教とはあまり関係ないんだろうけど、それでも、もともとこの人の絵の持っている東洋・中東・西欧をひっくるめたどこか宗教的な雰囲気と相まってすごく崇高で身近な空気が現れていたと思います。
「私の絵画は純粋抽象だが、太陽や空や植物など、自然に存在するすべてのものが画因である」みたいなことを彼は言っていたらしいけど、たしかに彼の画面からは自然や生命のきりっとした営みのチカラが見えない光となって放たれているように思いました。
というわけで、片手間に行ったわりにはけっこう堪能しました。4月9日までやってるので目黒の近くに行くことがあったらいってみてくださいよ。

*1:ある考え方とそれに反する別の考え方を用意したとき、一歩高い視点から見てそれら共存させるように提案される新たな考え方のこと。(ex. オニギリがおいしい+ハンバーガーもおいしい=ライスバーガーを食べればいいじゃない