呼応について

呼応の規則がなんぼのもんじゃい、と思うわけです。
良く取り上げられるのが「すべからく〜べし」という表現ですけど、それが「すべて、ことごとくみな」っていう意味の雅語だとみんな思ってるけどそれって違うんだよ、っていう批判は適当だと思うわけです。
でも、「すべからく」の呼びかけに「〜べし」できちんと応じてないからけしからん、とか言い出す人はどう考えても老害にしか感じられません。
ごめん。どう考えても、というのはさすがに嘘です。
たとえばすごく日常的でよくあるのは否定的な意味を示唆することばと「〜ない」の呼応です。一旦否定モードに入って、最後の予定調和的な「ない」で否定モードを抜ける、みたいな。何年も前から「〜ない」にこだわらずにもう一回否定的な意味をもってくればいい、みたいな風潮は広く理解されてますけど、それにしても否定的な示唆は否定的な断定でしめくくらないとなんか気持ち悪いね、という空気は残ってると思います。
そうすると、「すべからく」も「べし」も「当然そうすべきだ」という意味なので、だから「すべからく」で当然そうすべきだモードに入って「べし」で抜けるという意味では否定の場合と同じなのだと思います。
でもねえ。「すべからく」というのはもはや日常語ではく、たぶんそうすべきだモードなんていう微細な感覚は日本人の言語感覚から消滅してしまっているのだと思います。思いますよね?だから、「べし」がなくてヘンな感じがする、というのは本当は嘘なのです。ただ知識として「べし」で応じないといけないということを知っているから、こいつか、日本語を汚しているのは!的な義憤で誤用者にかみつくのだと思います。
ね。それは義憤なんかではなく知識のひけらかしなんですよ。「俺はこんなにくわしいんだぜ」、という醜い自己顕示行為です。
もちろん俺も「すべて」ってちょっとかっこ良く言いたいときに「すべからく」と遣るのは反対です。断固許すべきでない。だって考えてみてください、「須」っていう中国語に「す」「べし」「らく」を文法にそって活用させ結合したものを読みとしてあててできたのが「須く」じゃなかったですか?だから音節で分けて「すべ-から-く」だと思って、「すべ-て」に似ているなあ、使っちゃえ、というのは、ほんとうは「す-べか-らく」だよっていう意味で全然何言ってんの?って話なわけです。
というか文法的なことはどうでも良くて、要は俺はろくに何もわからないくせにカッコいいっぽいっていう誤解およびちょっと知的に見られたいという見栄のもとに日本語を間違って使うという行為が許せないのです。その見栄が断じて許せない。
「絶対的に」を「絶対に」の意味で使ったことある人、正直に手を挙げてください。
おろしてよろしい。
「姑息な」を「こざかしい、生意気な」の意味で*1使ったことのある人はどうですか?
手をおろしてください。
「依存」を「いぞん」と読んでいる人、と言って手を挙げさせることまではさすがにしないですけど*2、まあ俺はそういうアホなくせに見栄っ張りな手合いが許せないわけです。
だから、「〜べし」がない!!と言って怒り狂う人たちも俺は許せないわけです。こん見栄っ張りがなんばしょーとや!きさん、くらしあげるぞ!!とか思ってしまうわけです。
もちろん、「〜べし」狩りをする人たちのなかにはきちんと「そうすべきだモード」を感覚として持ってて、それで納得のいかない人もいないわけではないのだと思います。その人たちにはいやぁ、最近はそんな感じなんですよ。時代なんですよとかって言ってどうにかガマンしてもらうしかないですけど、だからそういう人たちと同じであるというふうには文法だけをタテに取る人々には思ってほしくないわけなのです。
ね。
文法があってそこからことばが湧き出てくるわけではなく、そこにあふれている言葉をいろいろ考えてわけていって説明するための写し絵が文法なのだ、というだけのことを知らない人って意外と多いんですよね、というのが最近感じている言語に関する落胆のうちのひとつです。

*1:その意味を言いたかったら「小癪な」が正解なのです。細かいけどね!

*2:何がおかしいのか分からない人は「いぞん」を電子辞書でしらべてみてね☆