blogの習慣に思う河原温の“コンセプト”

まず河原温という人について。彼の活動として有名なものを3つ挙げることができる。

「today」シリーズ

小さいキャンバスにレタリングのように当日の日付を描画し、当日の新聞を用いて作成した箱に収める。これを毎日行う。
ただし当日24時までにこれが完成しない場合、制作途中の作品は破棄となる。

「I am still alive」シリーズ

世界各地から「I am still alive」と書かれた電報を発信する。

「I got up」シリーズ

世界各地からその場所の絵はがきに「I got up at 7:00」のように自分の起床時刻を記述し、投函する。
彼の創作行為は言葉としてコンセプチュアルアートと呼ぶことができるとされる。アートの本質は作品制作の際の作家の意図(コンセプト)にあり、物質としての作品はそれを媒介するための支持体にすぎないという考え方のもとに行われるのがコンセプチュアルアートの創作で、結果として彼らはできるだけ作品自体が無価値であるように創作を行い、時には作品と呼べるものが存在しない(失われてしまうのではなく)場合さえある*1
河原温に話を戻そう。これらの作品には共通して彼のある日付における生存と生存場所が記録されていることがわかる。彼のコンセプトは彼という人間が生存し移動しているという根本的事実なのである、と言い切ることもできるかもしれないが、今は性急な結論は避けることにする。
ここでは上に取りあげた河原温の制作と日記型blogの関連について言及する。blogの楽しみ方は人それぞれでも、大まかに言って今日あったこと/したこと/おもったことを記述した日記的使用のケースは圧倒的に多い*2 *3。公開のものであり読者が自分に限られないblogは、その点においても生存と生存の様子の記録であるという他に河原温の制作と関連をもつ。
詳細な記録である日記とblog、記録の公開であるblogと河原温。ならば河原温+日記=blogかと考えてみると、これもうまくいかない。blogが「他人とのつながり」をシステムとして保証するとき、そこに生まれた華やかな欲求が日記と河原温のストイシズムを覆い隠してしまうことになるからだ。
毎日更新!!とか、面白いことをかいてやる!などと意気込んでblogを書いているうちになにを書けば良いのかわからなくなって「読む人の目を意識しすぎていたことに気づきました。これからは書きたいことを少しずつ書いていこうと思います」というような区切りをつける人がいるけれど、それは確かにその人の言う通りで、個人がさきほど触れた「華やかな欲求」のみを燃料としたとき、完全に読者のためである読み物を長期にわたってblogで提供し続けるのは並のことではない。
blogにストイシズムを求めるわけではない。blogにエントリを投げ続ける動機と河原温のコンセプトを無理から同一視させるつもりもない。ただ、われわれが他人のblogをいくつも巡回する時に感じる充足感は、河原温の制作を目の当たりにしたときの不思議な畏敬のようなものに似ていると思う。だから、河原温の制作もおそらくわれわれがblogをぽつぽつと書いてゆく作用に重ねることができるのだろう。
かつて果敢な芸術的挑戦であった手法は、どちらかといえばコマーシャリズム寄りの道を通ってやがて広く一般の文化へと拡散してゆく。そしてこんにちのblog文化がその道を通してつながっている先が河原温であるとするならば、彼の制作を前にしたときの印象もより身近に思えるのかもしれない。

*1:簡単な写真とともにどのように歩いたかを説明し、「歩く」という行為自体を作品として提示する者もいる

*2:ここに客観的データによる裏付けが欲しいところ。商業的なプロモーション目的、ネットラジオの更新情報やアイドルとかアーティストの露出情報などのニュース目的、あとは小説やイラストの手軽なアーカイブでもいい。blogの用途は広い

*3:話とは関係がないが、この前NHKでblogの運営方法をフランス語とかと同じように週一回で紹介しているらしい番組をやっていた。時代だなあ