どうして昔の芸術は難しくて、そのうえ今のアートはムズカシイの?

世間の匿名的な人々は芸術についてわからないと言ったりむずかしいと述べたりするけど、まあそれは彼らの言ってることが本当のことだからなのだと思うわけです。
おれが初めて自分の意思で美術館というものを訪れたときにはモネ(とモリゾ)をやっていて、いきなり「モネはすごい!!!」ということになってしまったので、世間の人が一般的に印象派に対してどう思うのか、ということを公平に推し量ることはできないと思うのですが、
それにしてもたぶん、普通の人が昔の絵を見たときに覚える最もポピュラーな感想は
「で?」
っていうものだと思うわけです。
もっと具体的な部分を付け足せば、たしかにきれいに描いてはあるんだけれどそんなのは写真にもある機能だし、風景や場面にしたって退屈でわざわざ見ようってもんじゃないなあ、
とかの、要するに「作家の努力はわかるんだけど、でもこんなあたりまえのモノを見せられても全然感動できないんだよね」的なことになるんだと思います。
まあそうなる原因っていうのはいろいろあって、そのうちの大部分はおれの知らないものなのだと思うのですが、この文章の主旨にいちばん合いそうなものとして、かつて時代の最先端を行っていたそれは現代においてはありふれた型落ちとなってしまうわけで、そんなようなものと素朴に対面したところでそのすごさはわからない(人が多い)のだ、ということが単純に考えられるんじゃないでしょうかね。昔の美術がなんで難しいのかっていうと、あらかじめなにがすごいのかってことを知っておかなければならないっていうのがあると思うわけなのです。
もちろんおれのようにモネに出会っていきなりメロメロになったりとか、そうではなくてアングル*1の絵に骨抜きになったりとか、あるいはマティスの色彩の虜になったりとか、っていう自分の感性との偶然の一致っていうのはあると思うんですけど、それにしても。
そしてそれは絵画が実際に目に見えるものから逸脱し始めたモダン以降の運動についても言えることだと思うわけです。
 
それにひきかえ、現代アートが難しいってことになる原因はそれがまさに今の時代の、他にどこにもない最先端である(ということになっている)っていうのが原因としてあると思うわけです。
たぶん、現代アート耐性のある普通の人にとって現代アートのすごさっていうのは言葉や知識として知っているものではなく、印象だとか記憶にそのままはたらきかけてくるものに感じるんじゃないでしょうかね。言語や思考をメイン武器にして戦うことができない。作品にキャプションが添えられていてもどことなく嘘っぽくてあまり参考にならない。そして(現代アートに限ったことではないものの)理不尽で無意味であったり、残酷で生々しかったりしてこちらを拒絶しているような気がする。
総じて、よくわからないものだ、嫌なものだ、と思う。
おれ自身まだ現代アート(とかその他の芸術)とのつきあい方がしっかりわかってるわけじゃないんだけど、それでもやつらと対峙する時には自分の感性がそれをどう受け取っているのかということをより意識的に探らなければならないんだってことは経験的にだけど知っています。でも、だれか*2
現代アートは現代人のきみたちにこそ楽しんでほしい。今起こっている運動を真に理解できるのは今生きているわれわれだけなのであり、それをリアルタイムで感じられるのは今という時代に生まれた幸福だ」
と言っていたように、現代の最先端の、現代人たるわれわれのために存在しているアートっていうのはわかるわからないのハナシではなく、それを自分が好きなのか(あるいは嫌いなのか)それとも全然興味が持てないのか*3っていうだけの軽いノリで挑めばいいし、そうしなきゃいけないんじゃないかなあ。と思うわけです。
 
で、まとめとしては、昔の芸術が難しいのは異文化理解ってものがもともと難しいものだからで、今のアートがムズカシイのはそれがもともと理解すべきものではないから、ってことになるのかしら。
そんなわけでみなさんも、次の週末には彼氏や彼女と森美術館やら国立新美術館にでも行ってみたらどうですかね。

*1:ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(Jean Auguste Dominique Ingres, 1780.8.29-1867.1.14):新古典主義の画家

*2:たぶん美術の冨田君

*3:愛の反意語は無関心というやつです