なぜオレンジレンジは売れるのか。

音楽がある程度好きで、カラオケにある程度いく人には
「カッコイイ音楽を歌うとカッコよくない」
現象にでくわしたことがある程度あるのではないかと思います。
家で出先で何回も気に入って聞いている音楽が、カラオケで歌ってみるとぱっとしない。もちろんカラオケのオケにほんものの楽器の音の織りなす緊迫感を求めるのは無理な相談なんだけど、そのぶんを引き算してもどうもパッとしない。
それはたぶん、それがほんとうにカッコイイ音楽であるがゆえのことだと思うわけです。というのは、音楽のカッコよさというのは譜面には残らないからなのです。具体的に言えば、くるりの歌は岸田が歌うから完成するのであって、あるいはカバー曲なんかでも、譜面としての音楽に別のアーティストが別の気合いを充填することによって別の曲になるのであって、その譜面をみたすほどの気合いをもたないパンピーであるところの俺らが歌ってしまうと、あんまり間が持たないね、ということになってしまうからだと思うのです。
音楽のよさと音楽のカッコよさは別物なのです。というか、カッコイイのは音楽ではなくてその音楽をやっている人たちなのです。ふだん俺たちがカッコイイと思う音楽の譜面にはそれをやる人たちの気合いを充填する為のスペースがあって、それを満たすことが出来てはじめてそれはカッコイイ音楽として空間に広っていけるのです。
バンドサークルをやっていると、パンピーでありながらも定期的にある程度(場がしらけてしまわない程度)のカッコよさを求められてしまうのですが、でもバンドというその気合いを全面に押し出した形態においては、練習すればほんとうに一般のパンピー(語義畳重)にでもそのぶんの気合いぐらいなら発揮することが可能になってしまうのです。
だから、なんでバンドサークルがJ−POPのうわずみを避けてポップスやロックをやるかというと、J−POPのうわずみというのは資本の投下により売れるべくして生み出され、果たして売れたというスキのない「いい音楽」なのであり、そういう楽曲には(それが「いい音楽」である度合いとは別の話として)気合いを充填する為のスペースがほとんど残されていないために、気合いをウリにするバンドのライヴにおいては間の悪いものになってしまうからなのだと思うわけです。
だから、そんなようなスキのない「いい音楽」ならカラオケというシチュエーションにおいてもそれが劣化することはないわけです(まあ世の中にはノドの不自由な方もいらっしゃるとはいえ*1)。そして、順調に売れていき、歌われていくわけなのだと思うわけです。
 
まー、だからといってオレンジレンジの音楽が「いい音楽」か、というとそれは別の話なんですけど。(何

*1:音痴と言ってしまったほうが差別的ニュアンスが少ないのはなぜだろう