運命および宿命について。

運命は/みずから運ぶ/命なり
という句が、俺のふるさと石川でウィークデーの午後にやっている地域密着系情報ローカル番組の「今日の占い」的なコーナーの冒頭に添えられていた時期がありました。そして、それを目にするたびには「まことにもってその通りである」と心の中でその文句を肯定したものでした。
俺はいつのころからか、同じ漢字でも読みのちがうものや同じ読みでも漢字のちがうものにはそれぞれのニュアンスの違いがあり、ましてや同じような意味でもそれを表すいくつかのちがう語のあいだには明らかな意味の差異があるのだ、という思想を確固として抱くようになりました。ので、運命にはうんめいの、宿命にはしゅくめいの、それぞれに固有な意味を自分で付与して今では考えているし、当時の俺にもその思想の片鱗は現れていたのだろうと推測します。

うん-めい【運命】
人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命(めい)によって支配されているという思想に基づく。めぐりあわせ。転じて、将来のなりゆき。
 
しゅく-めい【宿命】
前世から定まっている運命。宿運。しゅくみょう。
(いずれも広辞苑第五版より)

なにも広辞苑の編纂者にけちをつけようってわけじゃないです。ただ世間に多く出回っているような、宇宙のどこかにでっかい図書館があってそのなかにぞれぞれの人に対応した本が一冊ずつあり、そこにその人が生まれてから死ぬまでたどる道筋が書いてあって、それが運命ってものなんだよっていう考え方が気に入らないだけなのです。
俺は、俺のいう意味での運命や宿命の存在を信じる立場にあります。そういう意味では運命論者なのですが、それは世間一般に運命論者と言ったときのスタンスとはずいぶんちがうわけで、そういう意味では運命論者なんかではないわけです。
人が、人の意志の及ばない所で彼の人生を決められてしまうことなどありうるのでしょうか。答えはイエスであり、ノーであると思います。「運命に身を任せる」という言い回しがありますがそれはそのとおりで、身を任せるか立ち向かうかぜんぜん違う方向に逃げるかとかの選択肢、といって限定的すぎるなら対処法が人間には約束されているのだ、ということなのです。もっとすっきり言ってしまえば、運命とは人間がおのれの意志と対峙させる外的な流れなのだと思います。そしてそれが「状況」ということばとちがうのは、それが過去から現在の周辺を通って未来へ続いていく性質のものであり、それがあるひとまとまりの傾向やそれから類推される意志のようなものをもっているという点においてだと思うわけです。
付け加えるならば宿命というのは、たとえば俺だったら日本人であり、男であり……といったような状況設定から始まって、さきほど触れた「一定の傾向」にいたるまでの彼の人生の始めから終わりまで存在するよく見えないバックグラウンドのようなものなのだと思います。
そして、そういうふうにも読むことのできる広辞苑の記述は秀逸だなあ、とお世辞を言っておきますw

うーん、だからなにが言いたかったのかっていうと、これから俺はしばらく運命の指示する通り進んでいくし、けれど決める所ではそれに抗うことだってしなきゃいけないし実際するんだぜ、という意志表明です(何