「シュルレアリスムと美術」展@横浜美術館

いってきました。日曜・最終日・午後の三重苦だったのにそこまで混んでなかったというのが、日本人がその程度のものだということなのか横浜美術館がその程度のものだということなのかみなとみらい線がその程度のものだということなのかは俺にはわかりません(何

長めのブランクを経ての美術館行きだったのでちょっと心配だったのですが、成果は悪くなかったです。ということで思ったことをつらつらと。

えー、いちばんメインの感想としてあったのは「シュルレアリスムというのは結局コラージュによって成り立っているのかなあ」ということです。もちろん例外はあれど、大筋として。
それがなんかよくわからんぐちゃぐちゃではなくあくまで超現実であるのだ、という主張を行うにはコラージュという手法はうってつけで、
別のところから絵とか写真を持ってきて貼り付けるだけで画面の文脈はぐちゃぐちゃになってかんたんに超現実の「超」の部分をつくりだすことができるうえに、
それぞれの素材が実在した普通のものであるので超現実の「現実」の部分を主張することができる(というのは、ただ乱数表みたいにピクセルを並べたでたらめの砂嵐じゃないんだぞ、という意味で)じゃないですか。
そういう意味では「優美な屍骸」ゲーム*1なんかは、シュルレアリストらしい新しいコラージュの形なのかなあって気がしますよね。
というのは、マックス・エルンストの作品が絵画的シュルレアリスムに初期からその発散まで居座り続けるさまを見ていて思いついたことなんですけど。
全体、絵画っていうのには文字ってものがなかなかでてこないものなんですけど、シュルレアリスム絵画はその傾向に従わない唯一の(ってわけでもないけど、希有な)群なのです。文字や文ってものは意味のかたまりなので、さらっと現実感をだしておきながら同時にそれを否定することができる*2っていうのが魅力的だったんでしょう。
初期のエルンストの作品をみてるとそういうことをすごく感じます。文字に限らず、記号的なものなら何でもって感じかな。
それとやけに立体的な作品が多い(キリコとかダリとかマグリットとかイヴ・タンギーとか。。。あとはエルンストの初期)のは、陰影と空間をきちんと整備することで現実から離れすぎないようにするっていうねらいがあるのかも。これはコラージュとは関係ないね。
で、まあほんとうにコラージュをしてたりとか、あるいは見た目にコラージュっぽいなっていう描きかたをしてるうちはまあコラージュだねって言えると思うんですけど、じゃあダリとかミロとかクレーとかのどこがコラージュなんだと言われると説明がいります。
えー、文に文脈があるように画面にも文脈が存在して、当然となりに並ぶべき物体というか、これの前景には当然これだろ、とかの「自然な」組み合わせがあると思うのです。たとえば海岸には砂があり、船があり、空があって雲があり、人々がいるよね、という具合に。そんなような画面の文のなかから文節だけを持ってきて不適当に組み合わせたのだ。という説明はわりに筋が通っていると思うのです。
マグリットなんかはだまし絵的な手法で有名ですが、画面を6分割して空とか人体とか森とかのわかりやすいイメージで各々のマスをうめる、みたいな初期の作品を見ると絵画の文節の分解&結合という説明を最も端的に肯定してくれているなあという気がします。
あるいは、ダリの絵といったら!みたいな感じで出てくる有名なイメージは、「なんか四角い台の角にやわらかくなった懐中時計がぐにゃーんと垂れ下がっていて、そこにアリがたかってる」みたいなアレだとおもうんですが、もし垂れ下がっているのが時計ではなくなんかの衣類とかだったらふつうの静物のモチーフだし、アリがたかっているのが甘いものとかだったら、まあ絵のモチーフとしてはあまりないものだけど現実的で意味のある絵であるとはいえる、ということになると思うのです。
そこまで説明しておいてさらに問題になってくるのが、ミロとかイヴ・タンギーとかの、おれらが普段見かけるものが画面上にないじゃんっていう人々の作品です。そこまでくると説明もかなり苦しくて、さきほどの絵画の文を文節に分解して……という過程で、分解する粒度をもっと細かくして、あるいは分解した後に咀嚼と消化をおこなってどろどろにしてからまた組み直すのだ。っていうことになるのでしょうか。
ここまでくると屁理屈なので、あの絵をつかまえてコラージュだといわれたイヴ・タンギーがかわいそうになってくるんですけど、それにしても、いくら意味のわからない画面であるとしても、イヴ・タンギーの画面とカンディンスキーの画面には決定的な差があると思うのです。というのは、カンディンスキーの抽象表現(ここではコンポジションシリーズとかの純粋なやつを想像してください)が現実とはちがうどこか別の世界からやってきているのに対し、イヴ・タンギーの非現実(あえてこの言葉を使わせてもらいます)表現がこの運動の名前にも表れているとおりどこかわれわれのまわりにある現実に根ざしていて、それはその画面が現実にあるものや現実に対してわれわれが感じるものをリプロダクションしてできたものであるように感じられるっていうところからきているのだと思うわけです。
シュルレアリスムがコラージュであるというのはそういう意味です。あるいは超コラージュって言ったほうがいいのかな。

まあいろいろあったんですけど、いちばん好きだったのはエルンストの「灰色の森」ですかね。シュールだぞ!!っていういかにもな感じではなかったんですけど、そーいう思想がどうこうとは別に見ていてなぐさむ感じがありました。

ていうか、横浜美術館って常設にノグチイサムがどっさりおいてあるんやね。こんどまたゆっくりこなければ。

*1:優美な屍骸:作品を複数人によって部分ごとに制作する手法。他の人の制作内容は知らされないため、全体として不条理で予期せぬ作品が得られる

*2:シュルレアリスムはあんなふうな内容にすることでより生々しく現実を見せる手法なのだから現実を否定しているわけではないという言いがかりもあると思いますけど、まあそのへんはよきに解釈してください。なみひととおりな現実のなみひととおりであるさまを否定するのだ、とか。やつらの絵画によって結局われわれが見せられているのは現実とは違った世界の道理なのです