吉原治良展@東京国立近代美術館。

日曜日に行ってきました。
本当はこれ目当てじゃなかったんですけど、目玉らしいので見てみた。吉原治良という人の回顧展です。
吉原治良という人は、黒地にでっかい丸を描いただけの作品が有名らしいですけど、「具体」という戦後の日本の絵画運動を絵画的にも実務的にも支えた人らしいです。ジャンルでいえば「アンフォルメル」らしいですけど、おれはアンフォルメルって名前とだいたいの歴史的なあれしか知らないのであんまり突っ込まないことにします。
回顧展ということで年代順に並んでたので、その順に思い出したことを書いていきます。
独学で油絵をはじめたらしいのですが、最初期はガラス瓶と花がテーマだったようです。とくにガラスの透明な部分に興味があったような感じ。
一枚だけちょっと象徴派的な作品があったんだけど、あれはなんだったんだろう。
それから魚とカゴと窓をモチーフにした作品群がはじまり、「魚の画家」として名声を上げていきます。瓶のころにも現れていたんですけど、セザンヌみたいな多視点の導入ですよね。とくに窓の内側と外側でばっさりと見方を変えているのが特徴的というか。まあ、ほかにも細かいとこで同じことはやってるんですけど。
おれはセザンヌのすごさはぶっちゃけわからないのですが、単純に絵が絵本のようというか、光に満ちてるっていうわけではないんだけどこう、瑞々しさ?のようなものがあるわけです。いろんなところでカンバスの地が出てるのもセザンヌっぽいけど、それは多分意識したわけではないのかな。まあとにかく魚と花が大好きらしいですね。きれいでしたよ。
ところが、ひととおおり魚を書きまくって満足したのかだんだんと形而上的なモチーフが混ざり始めてやばくなってくるわけです。書いてるもの自体は具体的なものなんだけど、ジョルジョ・デ・キリコの臭いが漂ってくるんですよね。まあそれでも「風景」とかいって実際の風景のようなものを単純化したりしてるうちはいいんですけど、やがて「窓」とかいって形態による純粋抽象を始めてしまうわけです。
そのあとはしばらく三角形に近い円とかそれを結ぶ線とかに興味を持っていろいろとやっているのですが、そのうちに画面が静かになってマチエール(絵肌のでこぼこ)をいじってみたりもしはじめます。
ところが面白いのが、このあたりで戦争が始まってしまって「丸とか三角とかを描いて、誰にも解らぬのに芸術家だけが価値ありとするなど、全く馬鹿げたお遊びである*1」などという風潮になってしまって具象絵画に戻されてしまったんですね。
それでしばらくはおとなしく子供や女性を描いていたんですけど、やっぱりあふれるリビドーはおさえられなかったのか(何)、ちょっとミロっぽくなったり、いよいよキリコっぽくなったり、いろいろやってたみたいです。
戦争が終わるとそれも少女の顔とか髪とかがだんだんおかしくなってきて、「鳥と少女」みたいな題名をつけつつ黒をバックに鳥人間みたいなうねうねしたのがデフォルメされた少女と画面に並ぶ、みたいな感じになり、やがては黒地に白い絵の具を盛りつけ、その上にまた黒い色を塗る、みたいなマチエールで遊ぶみたいな作品になっていくわけです。
その時代はしばらく続くのですが、だんだん黒地に描かれる円に興味が移っていって、マチエール遊びもおとなしくなっていきます*2
で、チケットにも描かれてる黒地に赤の太い丸です(これですね)。チケットをみたとき正直これは理解できないと思ったんですけど、実際前にたってみるとやっぱり来るものはあるよね。
ただそれも、そこに至るまでの段階があってなんとなくわかる程度のものなので、チラシとかでいきなりこの丸を見て「あら素敵だわ」とかって思って見に来てでかい声でしゃべってるおばちゃん連中は死ねばいいと思います。
そのあとは、まあ穿った見方をすればウォーホルみたいなイメージの再生産ですよ。俺が疲れてたせいもあるけど、ちょっとオプアートと関わってみたりもしつつ、あんまり生産的なことをやってるようには見えませんでした。
うーん。「誰のまねもするな!」とか言ってがんばってた割には「誰々みたい」という形容のできてしまう時期が多かった気がします。やっぱり難しいですね、絵画は(何
という謎のシメで終わりたいと思います。

*1:会場のキャプションにあった言葉。軍部の意見であるということを抜きにすれば、まあ当然といえば当然の指摘なんだろうけど。

*2:このへんで俺はもう疲れていたのでみかたもテキトーになってます