そのコを彼女だとおもうキモチの正体ってなに?

という疑問をいただきました。そもそも前の「愛するってどういうこと?」のエントリは彼女さんありきの話だったのでそこらへんについては無批判なのでした。
こーいうことはセックスがどうのとかの道具を持ち出せば簡単にそれらしいことが言えそうだというのは、いままでのオトナたちの言動をみて漠然と知ってはいるんですけど、なんだかバカっぽいのでそれはなしにします。
おれがなぜそのコを彼女だとおもうキモチについて無批判なのかを考えると話はおれの人生に及ぶのですが、まあそんなたいしたことはなくて、おれは物心がついてからいままでで誰かを好きでなかったことがないなあ、というふうに思い返すのです。この場合の好きは修学旅行の夜に「お前は好きな人だれなん?」とかって言うような意味での好きです。
もちろんいつも現在進行形の好きな対象がいたとかではなくて、そういう人がいないときは直前のだめだった人について好きであると認識していたのだということです。だからまあ、そんなわけでおれの人生においてはそういうキモチはごく当たり前のもので、そもそも批判対象として認識されることすらならなかったんだなあということが了解されるとおもいます。ていうか、だいたいの人はそうでしょう。そのコを彼女だとおもうキモチなんて、ふつう論理とか倫理とかの俎上にのせて細切れに捌くような対象ではないですよね。
それで、前からおれは「男女間に友情はない、少なくとも俺にとっては」と強硬に主張していたと思うのですが(何)、22年間も生きていると100パーセントそうとも言い切れない例がちらほら出現してくるわけです。そうするとvip的な流れでは「47: つまりそういう例とそうでない例の違いについて議論してみたらいいんじゃね?」「48: >>47 鬼才現る」となるわけなんですが、残念ながらいまそれを考えてみたところその人たちにはある種のあきらめや嫌悪の念をおれが持っていることが判明したので、>>48には『おれが「とくに無差別に人を好きになるわけでもないし、まあまあ分別もつくほうだ」っていう至って普通の人であるということが明らかになるにとどまった件』とレスを返さざるをえないことになります。
でも、ここにきてもうひとりの鬼才が現れます。彼は、「逆に考えるんだ。キモチの違いから状況の違いが生まれているのではなく、『状況の違いがキモチを違ったものにみせているのさ』と考えるんだ。」と言います。ジョースター卿の台詞にのせているのでいまいち伝わりづらくなっているんですが、要は、
彼氏彼女であるということは契約であり、それは互いにさまざまな権利と、それに付随するほぼ同数の義務を認め合うことなのだ。だからそんな権利いらないだとかそんな義務を負いたくないだとかと考えたくなるような人を前にすると、人は自分の好意をそのコを彼女だとおもうキモチではないと判断するのではないか、
という意味です。なんというか、これって事実にそぐわない考えではないと思うのです。もちろん権利とか義務とかの言葉は手に取れる範囲にある概念でいちばん近いものをあてはめただけで、現実にはその契約っていうのは、してあげたいとかしてほしいとかのことがらを互いが思ってしまうことを自分に対して(多くの場合相手に対しても)許容する、っていうのがわりと近い説明になると思います。それでじゃあ対象となるか否かを決定づけているパラメータはなんだと言われれば、顔の形であったり、それこそおっぱいであったり、普段の行動や人格や人当たりや、その他いろいろの人の好みってものになってしまう気がします。
うぅん。セックスによる説明並みに夢のない話になってしまった気がするのだけれど……つまりこういう話はことばで解体すべきではなかったんじゃないかなって気がしてきました。たぶんこういうのって心の問題なので、信仰と同じでだれか第三者によって説かれうるもんじゃなかったんだと思います。聞いていますかコウジ君。その子にはおれはこう思うのだがとよく事情を説明したほうがいいと思います。そしてそのことに関して了解をもらったのちにあきらめてつきあっちゃえよ(何
乱暴なおわりかたになったんですけど、たぶん嘘は言っていないと思います。それから権利とか義務とか契約とかの甘い言葉にまだつられている人々に言っておきますが、おれは自分の「そのコを彼女だとおもうキモチ」をそんなふうにとらえたことは微塵もありません。それだけ納得して今日のところは帰ってほしいと思います。